神造世界_心像世界 第二十幕
「彼が言った/彼女が叫んだ」
数学教師が発する暗号を適当に聞き流しながら、霧島マナは午後の日差しと睡魔の誘惑と戦っていた。
ポカポカと暖かい日差しは、彼女の瞼を垂れさせようと優しく降り注ぐ。必死になって抵抗を試みるも、すでに首が泳ぎ始めている事実に彼女は気づかない。こっくりこっくりと規則正しいリズムを刻むマナを、数学教師は目線も鋭く睨みつけた。
横隣の生徒が慌てて指でつつく。
肝が据わっているというか、単に鈍感なだけなのか。マナは気づかずに、現世と夢の世界の狭間から帰ってくる様子は一向にない。
学生の本分は学業である。
その学生に教える立場の教師から見れば、己が授業中に眠りこける生徒は、気分を害する動機に十分すぎた。ゴホンゴホンと、怒鳴り散らす前に起こそうと� �る教師。彼とて好きで教え子を怒鳴る訳ではない。誰が好き好んで嫌われ役を買おうというのか。どうしようもないからこそ声を張り上げるのであって、やたら無闇に癇癪を起こすのは愚の骨頂だと、教師は考えていた。
まさに教師の鑑といえる彼が妥協して、うほんおほんと警告を発する。当の霧島マナはついに境界線を超え、夢の世界への一歩を踏み出す。
眠りこけたマナを視線の隅に捉えながら、模範的教師である数学教師は、あらん限りに自分の声帯を震わせた。
「こんなのってないよーっ」
帰路の道を歩きながら、いかにも数歩先は崖っぷちです、と、そんな表情でマナは嘆いた。
授業中に居眠りをした彼女に待っていたのは教師の怒声と、普段の五割増しで厚くなった宿題のプリント集で� ��った。周りの生徒は哀れみの視線こそ向け、まあ措置としては軽い方だったかな、と、内心で苦笑いをした。
彼らの学年を担当する数学教師は、硬派なことで有名である。しかし学校内でよくあるような嫌味たらしい俗物ではない。生徒の面倒見はいいし、進路相談のために最上級生がよく相談にくることから分かるように、堅物ながらも聖職者としては優良だった。
宿題を出された当人にしても、居眠りしたのは事実であるから、彼を恨めしく思いこそすれ、腹が立つほどでもない。
そう、普段ならば。
「ふぁあ・・・・」
あくびをかみ殺し、マナは頭をボリボリと掻く。
隣を歩いていたアスカが、そんな少女の劣情な行為に苦笑しながら、何気なく聞いた。
「どうしたのよ、マナ。� ��ケに眠そうじゃないの?」
まぶたを重そうに、あくびを連発する姿を見れば、誰だってアスカと同じ疑問を持つだろう。大抵の場合、夜更かしだと相場は決まっているのだが。
一つ頷くと、マナはやはり夜更かししていると白状する。なんでも、入院していた彼氏が今日退院するらしい。その祝いのために、昨日からいろいろと準備をしているのだという。
「・・・・へえ、良かったじゃないか」
アスカを挟んで、一人ぶん向こう側のシンジが微笑んだ。すでにお決まりとなりつつある、このメンバー。
「うん! まだギブスが取れない場所があるんだけど、通院に切り替えてもいいだろうって」
「なるほど。愛する彼氏のために退院祝い、か。ヤケるわねー」
小悪魔的に微笑す� �友人に、顔を赤くしながらマナは「もうっ」と、頬を膨らませた。
マナにしても、長年友人として接してきたムサシを恋人のように扱えているか、と聞かれれば、唸るしかなかった。そもそも恋人になったからといって、彼らの立場が変わった訳でもない。昔から気の許せる友人はムサシと、今は亡き浅利ケイタだけだったのだ。男と女である以前に、彼らは仲間であり家族だった。気の合う兄がいきなり恋人になりました、と言われても、妹分であったマナには実感できないのも無理はない。
ただ、好いているのは確かである。
小学生でもあるまいし、友達の"好き"と、異性の"好き"が違うことくらい、彼女でも分別がつく。
気恥ずかしさというかなんというか。
面と向かって「好き」と言えた� ��は、あの病室での告白劇以来一度もない。思い出すだけでも頬が赤くなるのが分かる。それはムサシも一緒なのか、暗黙の了解であの日の出来事は口にしていない。
マナが隣を見ると、シンジが器用にも、目をつむりながら歩いているのが目に入った。
少なからず、霧島マナは、碇シンジに惹かれていた。今でもそうだ。彼氏持ちだなんだと触れ回ったのは、これまた隣を歩くアスカを沈静させるための手段だった。目くじらを立てる彼女は、誰から見てもシンジに好意を寄せていたし、彼らは戦友でもあるらしい。
セカンドチルドレンとサードチルドレン。
実際に戦場に立ったことのないマナには、戦友の持つ意味が理解できない。極限状態で信頼できる大人も少なかったNERVで、一時的にでも、同じ屋根の 下で暮らしたことのある二人が惹かれあうのは、当然の流れだろう。
ただ、環境が環境だっただけに、戦時中に二人が結ばれることはなかった。
三年たった今、こうしてシンジとアスカが付き合っているのは納得できる。言うなればシンジは、マナの立場でいうムサシとケイタなのだ。
"同年代"というだけで仲間意識が生まれる上に、彼らはマナを守ってくれた。口先だけではない。行動をもって自らを守ってくれた。
(・・・・好きになるのも、無理はない、か)
アスカが病的に信頼を寄せているのは知っていたが、こうして考えてみると頷けることも多い。
もしマナが一人っきりで見知らぬ連中の中に放り出され、戦争することを強要されたなら。きっと遅からず慰み者にされていたに違� ��ない。いつ死ぬかもしれないという恐怖と、生きているのも辛い生活。想像するだけで恐ろしい。
そんな中で現れたのが同年代の異性で、かつ、自分を守ってくれたとしたなら。
精神的に参っているときは、現状を抜け出せない自分さえ嫌になって、泥沼のように自己嫌悪に陥る。自分は駄目だ。情けない。なんで自分だけ。誰か助けて。でも恐くて言い出せない。なんでどうして。自分がこんなにも苦しんでいるっていうのに。神様仏様。誰でもいいからここから出して。情けない。自分が恨めしい。役立たずめ。信用ならない。自分が一番情けなくて惨めで信用ならない。
――――――そんなとき、助けてくれたのが、他でもない、あなた。
死にたくても死ねないとき。
< p> 助けて欲しくても助けてもらえないとき。 救ってくれたのは、神様なんて概念じゃなかった。
救出劇は、それだけ大きな意味を持つのだ。人生を持って忠誠を示し、自らを犠牲にして尽くす。毎朝毎晩、十字架に祈ったり中古本を読み上げることより、なんて有意義な尽くし方なのだろうか。
詳しく知る訳じゃないけど、きっと、アスカもそうなのだろう。
「ねえ、キスとかもうしたの?」
「き、キスッ!?」
大げさに驚くマナを一瞥し、アスカは不思議そうに首を傾げた。
「なによ、そんなに驚くことなの? 彼氏っていうくらいなんだから、恋人ってことよね。だったらキスくらい・・・・って言うの� ��変だけど、そのくらいしてもいいんじゃない?」
「そ、そうだよね! キスだもんね。ちゅー、だもん。ちゅー」
ちゅーちゅー繰り返す姿を見て、アスカは彼女達がそこまでいっていないことを確信した。
そして安堵する。自慢じゃないが、自分達だってドッコイドッコイなのだ。手を握っただけで緊張するし、キスだって未経験(三年前のはノーカウントだ)である。
しかしながら、彼女の知らぬ場所で、リツコとシンジがすでに接吻をしていたと知れば、どうなることか分かったものではない。
「クスクス・・・・初々しいねえ」
じゃれ合う二人を横目に、シンジは空を仰ぐ。
マナを眠りの国へと誘った陽気は、今も尚、第三を照らしている。
マナは制服姿のまま、足を病院 へと向ける。