より多くの医師は不眠を緩和し、一般的な生活の日常のストレスを緩和し、喘息を持つ個人が容易に放出する助け、血圧、狭心症を有する個体で優れた運動性能をダウンさせる方法として、瞑想を注文しています。
!doctype>2012年6月10日日曜日
ダウンロードし Meditation Mystery And Mastery Android: APPCRAFT
2012年6月4日月曜日
:: アセンション | So It Shall Be ::
丑三つ時に、眠れずこれを書いている。
昨日は、こんなのほんとぉ〜に久しぶりと感じる爽やかな秋空で朝を迎えた。
空気が肌にも心にも優しい……一昔前なら当たり前だったこんな天候が、
今では「つかの間の贈り物」のように、貴重でありがたいものになっている。
嬉しくなり、10時前に次男を誘って近所の公園で野球をした。
青空の下、気持ち良く遊べたが、空にはHAARPの活動を示唆するスカラー雲が
見え始めていた。
案の定、一番敏感な夫がさっそくヨレヨレになった。
私もお昼過ぎには身体が重くなり、朝湧いていたやる気がどんどん失せて、
結局何にも手を付けられず、夕方を迎えてしまった。
「スカラー雲」は、今、中国が諸々 の強気な行動に出ている事と無関係ではないように思う(米中の代理戦争のようなものが、不可視のスカラー波によって展開している??)
尖閣諸島云々の問題について、マスコミは相変わらずまともな報道をしないし、
裏の情報源もそれぞれの思い入れが強くて、ちょっと油断すると、こっちも
中国という国に感情的に反応してしまいそうになる。
が、問題はそんなことじゃなくて…
!doctype>2012年6月1日金曜日
ココロに溺れる〜摂食障害〜
不安感が募ってくる。此れはきっと強迫性障害の所為であろうと
考える。
理想的な私のスケジュールは、午前中は絶対に眠り続けて、
14時半頃起床する。すぐにシャワーを浴び、さっぱりした心で
髪の毛を乾かして、お下げ髪にする。そして日中薬を服用して、
ソイラテを少しずつ飲みながら一服し、読書に耽る。
その後はずっとミネラルウォーターを飲み飲み氷を齧り、
スーパーへ行くまでの時間を過ごす。
この通り過ごせたら、拒食を達成できた事と読書ができた事に
満足してゆったりとした心でスーパーへの道程も足取りが軽い。
しかし今日は酷かった。
夜中の過食時、自分の部屋に食べ物を運んでいる時� ��、
足を滑らせて転び左肘を強打し、身体も強かに床にぶつけた。
一瞬頭の中で星が弾けて何が何だか分からなかった。
最近こうして自分の身体の均衡を失い、物にぶつかったり、
何も無いところで躓いたり、今回の様に滑って転んだりと
おかしくなってきている。多分痩せた事で筋力が衰えて、自分を
支える事が上手くいかなくなってきているのであろう。
夜中の過食嘔吐は壮絶である。手に負えない。
我慢しようとしても出来ない。しんどいから、疲れているから
夜中に食べる事なんて止めようと思っても、
『食べなきゃ駄目だ。心の穴を塞ぐのだ』
という悪魔の言葉が囁きかけて、言う通りにせざるを得ない。
この『心の穴』とは 一体何なのか・・・。
その穴から聴こえてくるのは、『寂しい、悲しい、苦しい』
と言うものである。まるでそれを食べ物で塞いで自分の感覚を
麻痺させようとする為に過食、そして嘔吐しているようである。
今の私には此れが普通となってきている。この病気でない人と
比べても何にもならないと分かっているが、正直な所、
普通に「いただきます」と食べ、「ごちそうさまでした」と
言える人がとても輝いて見える。
今や私は固形物を全く食べられなくなったのである。食べたら即
過食嘔吐に繋がるからである。
命を繋ぐのには、『食べる』と言う行為が
必要不可欠なことであろう。しかし私はそれに障害を
きたしている。勿論、一般的に普通� ��いわれている生活も
出来ないし、どんどん追い詰められる。しかし、どんなに
頑張っても『食べる行為』に物凄く恐怖を覚える。
本当は過食をしている間も恐怖なのである。食べている時から
身体はその栄養を吸収しているのであるから・・・。
でもそうして私は生きていられる・・・。
閑話休題。
今の私には、『母の存在』が必要不可欠である。
とても温かく大きく優しい。子どもの頃は鬼のような顔をして
私を叱責、殴打していたが、今は本当に優しく心配して
くれている。今の母の姿こそ、本物の姿であると強く感じる。
温かく思い遣りに溢れて、私の事を気にかけてくれる。
子どもの頃そうでなかった分を今、取り戻しているようである。
少し前まで� �私がとても苦しくて縮こまっている時、
優しく抱き締めてくれても何処かに恐怖と抵抗感があった。
だからとてもぎこちなかった。しかし、今はその母の体温を
温もりを、抱き締めてもらった時に素直に受け容れられる。
親不孝な事だけはしたくない。こんなに思ってくれているので
あるから・・・。だから母が生きている間は自棄を起こして
大量に薬を飲んだり、自殺行為をしたりする事は無いであろう。
しかし母を喪った時、自分がどうなるか分からない。
きっと寂しくて生きていられなくて後を追うであろうと予測が
つく。だから今、自分の人生を生きている訳ではなく、母に
安心してもらう為に息を繋げて生きているのである。
私は本当の所、絶望の淵に立っている。< /span>
差し伸べてくれる手をも掴めそうに無い。
しかしそんなギリギリの状態で母は私を愛してくれている事
だけは強く感じる。そして此処で出会えた皆様の優しい
コメントを拝読する度に今生きている事は必然なのだと
感じられる。
前を向いて突き進む事はできないが、ゆっくり一歩ずつ進んだり
後退したりを続けながら、生きていられたら今はそれで
満足である。
必要なものであるからしてしまう事なのであろう。無理して我慢
しても、他の心身症状が出てきて辛い目を見る。
いつも私は、『普通って何だろう』と考える。
朝起きて朝食を食べ、歯を磨いて仕事へ行く支度をして、
家を出る。仕事をこなしてお昼休みには昼食を食べる。
休憩におやつを食べて、週末であれば帰りに居酒屋で
飲み食いでもするであろう。ちょっと食べ過ぎたかなと
思っても、そんなに気にする事も無く、夜になれば眠りに就く。
私はそうやって普通に人々がする事が出来ない。
一口でも食べ物を口に入れ、飲み込んでしまったら、もう意識は
過食嘔吐� ��辺倒になる。
普通と言った概念から大きくかけ離れるのである。
今ではもうサラダや海藻、カロリーの低いゼリー飲料でさえ口に
出来ない。飲み込んだ時点で過食嘔吐となる。
過食嘔吐は身体に物凄い負担と、心の不安定さを呼ぶ為
日中は絶対にやらないようにしている。勿論空腹感を覚えるし
「食べたい!!!」と言う衝動が襲ってくる事もある。
しかし昼間は抑制できる為、ミネラルウォーターを飲み続けたり
氷を食べ続けたりして、水分だけで過ごす。カロリーの無い
ものを胃に入れておけば、空腹感も紛れるのである。勿論
この行為も決して身体に良い訳はなく、苦渋の選択である。
このような行動は誰が見ても『異常』と
見做す であろう。決して普通ではない。その上夜になれば
沢山の食べ物を胃に詰め込んで、詰め込んで、限界が訪れたら
全て吐き出してしまうのである。この苦しみは異常で非常に
耐えられなくなる時がある。
勿論自業自得である事も本当に充分承知している。
しかし、止めたくても止められない。夜になるといつの間にか
私は食べ物を次から次へと口に運んでいるのである。
このような行為に、もしも意味付けるとしたら、
『食べている間は無心で何も考えなくて良い事』
であろうか・・・。私は摂食障害の他にうつ病やPTSD、
強迫性障害etc...を抱えている。それらを全て忘れていられる。
日常過ごす自分の情けなさ、人や世間に対する恐怖感、
過去� �苦しい事哀しくて辛い事をも、忘却している。
しかし、それによる代償は物凄く酷く苦しいものとなる。
それらは摂食障害のことを詳しく書いてあるHPの通りである。
特に苦しいのが低血糖であろう。身体は振るえ、頭がぼんやりと
して意識を失いそうになる。また電解質の異常により手先足先が
痺れる事もある。其処まで身体に多大なるダメージを与えても
止められないのが病気である所以であろう。
私は決してもう多くのものは望まない。唯、『普通』が
欲しい。食べ物に感謝をして「いただきます」と食べ始め、
腹八分で「ごちそうさまでした」と言いたい。
そして食べたものが私の糧となり、血や肉となり、明日への
命を繋いでいきたいと感じる 。何よりもこの食べ物を粗末に
している自分と言うのが赦せないのである。悲しい。
それにこんな事を繰り返していたら母より先に死んでしまうので
それがとても心苦しいのである。
人々は『普通』である事を嫌い、『特別』を求める。
人より秀でていき、容赦なく弱者を足蹴にして特別になろうと
伸し上がっていく。そうして輝かしいポストを得て・・・・・・、
一体その後何が待っているのであろう・・・。非情に無情に
上を目指して生きていく様はとてもじゃないが尊敬できない。
慎ましやかに人情を重んじ、温かく、決して上へは行けなくとも
優しい心の持ち主である人を尊敬する。それは至って『普通』
であるが、社会に出るとその優しい人々は� ��牲となってしまう。
時には会社の尻拭いとしてのスケープゴートにもなりかねない。
それでも良い。私は、普通な生活を送りたい。
小さな自然を身辺で見つけ、心を癒し豊かにして、温かい心を
持ちたいと願う。
勿論こんなに病気まみれの自分はギスギスしていて、心の余裕を
生み出すことすら難しい。しかし、夕暮れの空に感銘を受ける
ように、小さな自然を大切に心に取り入れて、心を癒して
治癒へと向かられたら考えるのである。
目覚めた時から薄暗く、気分も同じく暗く暗く重くなっていく。
爽やかに晴れすぎた空も苦手であるが、夕陽すら顔を見せない
大粒の雨が降る日は、一挙手一投足が疲れてしまう。
目覚めたのは15時半頃であった。暫しボーっとして、
シャワーを浴びた。ほんの少し、重苦しい頭がすっきりとする。
しかしいつも時間に追われている感じは払拭できない。
この時間にはあれをして、これをして、そして読書をして・・・。
余程気分が堕ちきっていない限りは、読書の時間だけが
唯一現実を忘れられる救いの時間である。最近は乃南アサ著の
本を読み漁っている。此れは知人から借りたものなのであるが、
沢山貸して頂けて、 喜びも一入である。乃南アサの作品は
大好きなものが多いのであるから。そして読書をゆっくり
嗜みながらコーヒーを飲んだり、ミネラルウォーターを飲んだり
しながら、ゆったり過ごす。しかし抑うつ状態にあると、
何故か先を急いでしまい、落ち着かないのが苦しい。
正に自業自得である。けれど読書をしていれば、
鬱から来る希死念慮から逃れられている。
私にとって大切な時間である。
なるべく生活リズムを正したいと思うが、朝目覚めてしまうと、
過食衝動が容赦無く襲ってくるし、嫌な事・過去の事・苦しい
現実を考え込んでしまって、何も良い事は無い。それにそんな
風に朝から目覚めても拒食で通す為、低血糖により身体が
震えたり、精神状 態が悪化の一途を辿ったりする。
だから私は昼も過ぎ夕方が迫ってくる時間に起床するのかも
しれない。強いお薬のおかげで深い深い眠りに就き、
目覚めたらシャワーを浴びて、ソイラテを飲む・・・などと延々と
続く作業は、全て強迫観念から来ているものである。
そして絶対に日中は過食嘔吐しない事も自分に戒めている。
正直自分の意思は殆ど入っていなくて、苦慮の末編み出した
日中の過ごし方なので、もう今や守らないと気が済まない。
落ち着いていられないという事が苦痛でなだけである。
スーパーへ行く時間が迫り、雨が降っている事に少々の怠さを
抱きながら支度をした。そしてこれから自分が行う事について
物凄く嫌気が差しながらも、吐く為の食べ物を購入す� �。
しかし日毎に『食べたくない!嘔吐したくない!』
との想いが物凄く募ってくるのである。しかし此れも強迫観念が
為している事で、逃れられない。それに私は0か100かしか
頭に無いので、食べないと決めたら飲み物だけで過ごす。
もし一口でも食べ物を食べてしまったら、嘔吐するまで
止まらないのである。うつ病が重みを増してくるにつれて、
『何にもしたくない。食べたくも無い。吐きたくもない。
いつまでもいつまでも眠っていたい』
と言う思念で一杯になる。そうなると心の容量も狭まっていき
自分自身が凄く小さなものになる。
『もっと豊かな心を持ちたい』
と願っても、心の視野が狭まっていくばかりである。
唯� �、読書によって違う世界に浸れる事だけが救いである。
情けない自分であるが、少しずつ前を向けるようになりたいと
思う・・・。
隣の部屋でぐったり倒れていた。しかし早く胃薬を服用し
眠剤も服用せねば昼に起きられなくなるので、重い足取りで
部屋に戻り、一連の作業を終えて眠りに就いた。目覚めたのは
16時である。急いでシャワーを浴び、一息つけた所で
様々な思いを頭の中で巡らせていた。
私が通っていた高校は、キリスト教プロテスタント系の学校で
あった。勿論毎朝礼拝があり、授業に聖書の時間もあった。
私は無神論者であり、無宗教であるが、聖書には色々と
気付かされる事が多く、学校で暇な時に読んだり好きな箇所に
付箋を貼り付けたりしていた。
其処で今日、ふとこの言葉が頭に浮かんできた。
『あなたがたは、兄弟の目� ��あるおが屑は見えるのに、
なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。』
( マタイ・7・3〜5、ルカ6・41と42 )
と言う言葉である。
全体の文としては、
『人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。
あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与
えられる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ
自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって「あなた
の目からおが屑を取らせてください」とどうして言えようか。自
分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸
太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟
の目からおが屑を取り除くことができる。』
( マタイによる福音書第 7 章 )
私はこの箇所を高校生の頃読んだ時、衝撃を受けた。
『人を裁いてはならない』 事に成程と言う思いを抱き
『偽善者である自分』 を思い知らされた。
私は余り神に基づいて考えている訳ではなく、日常生活に
取り入れて思考を巡らせた。私は高校生の時も毎日過食嘔吐を
繰り返していたので、本当は半ば聖書の言葉に縋る部分が
無きにしも非ずと言う状態であった。しかし私の目の中には
丸太があり、妹弟のおが屑に気付いていても取り除いて
あげられるような人間ではないと思い知らされた。
また、『人を裁くな』と言う箇所、
『あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る
秤で量り与えられる』という箇所には感銘を受け� ��。
高校生の自分がその時解釈したのは、自分の心の力量や乏しさ、
小ささが浮き彫りとなった為に、もっと温かく豊かで大きな心を
持たねばと想ったのである。
自分の目の中に丸太があるというのに、兄弟のおが屑を取り除く